カラヤン
5日、生誕百年記念・・・
オーストリアで記念コンサート・・・
ベルリンフィルの指揮者・・・
明日、ウイーンフィルを聴きに行く予定だが・・・
トヨタのバックアップ、、、
青柳洋介
カラヤンの人物像は、チョー個性的、ハイパワー、ハイエナジー、、、
ある種の「超人」に思えるが・・・
カラヤンのCDは2枚持っている。adagio, adagio2
---Wikipedia
カラヤンの指揮法はダウン式で、手を振り下ろした地点で音の打点を示す、外見的にも非常に格調高いものがあった。またオーケストラは(長年鍛えられたベルリン・フィルの場合これが顕著であったが)指揮の打点時のずっと後に音を出す事を心がけ、非常に重量感のある音を求めていた。また、楽員の集中力や陶酔力を深めるためとして目をつぶって指揮したため、団員ははじめ大いに戸惑ったが、「じきに慣れるさ」の一言で押し通し、事実その通りになった。また、この独特の指揮姿がカラヤンをして、聴衆にある種のカリスマ性と神秘性を付与したのも確かであった。目を閉じる指揮法については、暗譜での指揮に関しクナッパーツブッシュから「(私が暗譜で指揮をしないのは)私は楽譜が読めるからだ」と皮肉を言われ、それに対し演奏に集中するための暗譜であることを誇示するために目を閉じるようになったという伝説がある。真相は不明だが、人目を気にするカラヤンの性格を端的に表す逸話ではある。
また、完璧主義者カラヤンは、自らのイメージ作りにも独自のこだわりを持つ大変なナルシストであり、特に写真やビデオの撮影と公開にはことさらにうるさかった。顔にしたたる汗を写すことすら許さず、写真も片側からの写真しか許可しなかった。映像収録の際はベルリン・フィルの団員達も音と映像を別撮りしたため、撮影が困難になり、薄毛の団員にはかつらまでかぶせられたという事からも、カラヤンの執念が伺える。
しかし、完璧に管理されたスタジオ収録の映像より、NHKやTBSなどによって収録された日本でのライブ映像や1977年の第九、1982年のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団創立100周年記念コンサートのベートーヴェン交響曲第3番『英雄』といったコンサートの方が、実演におけるカラヤンの凄みを一層伝えるより貴重な映像記録として高く評価されている。
カラヤンの影響は音楽面以外にもさまざまなところに現れている。カラヤンは、ジェット機を乗り継いで世界中を飛び回って活動するという、昨今のスター指揮者の活動様式を始めた最初の一人でもあった。カラヤン以前には、指揮者は一つ処でオーケストラやオペラハウスの顔をするのが普通であった。その意味でもカラヤンは現代指揮者の一典型といえよう。また自家用ジェット機を保有していて、自ら操縦し別荘などへ行っていた。愛機はファルコン10。晩年になって、80歳で期限が切れる飛行機の免許の対応として、ヘリコプターの免許を取得している。大変な車好きとしても知られ、運転はF1ドライバーのニキ・ラウダ直伝。晩年にはポルシェの959に乗っていた。エリエッテ夫人は納車された959を見て、「もっとレコードを録音してもらわなきゃね」とジョークを飛ばしていた(「カラヤン・イン・ザルツブルグ」にその時の様子が映像収録されている)。カラヤンのスピード狂はスキーにも及び、直滑降の名手として山小屋の主人から「アルプスで1番早いダンナ」と呼ばれていた。
---Wikipedia
ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者。1955年よりヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の芸術監督の地位にもあったことなどから、「楽壇の帝王」と呼ばれた。20世紀後半のクラシック界のみならず、世界中で最もよく知られた巨匠(マエストロ)である。
名のHerbertは、現代のドイツ語では「ヘルバート」(より正確には「ヘルベアト」)[hɛrbɛɐt]とも発音される。
ヘルベルト・フォン・カラヤンは1908年にオーストリア・ハンガリー帝国(現在のオーストリア共和国)ザルツブルク州のザルツブルクで貴族の子として生まれた。彼の先祖はビザンティン帝国(東ローマ帝国)に仕えたギリシャ人のカラヤニス家(Karaiannis, Caragianni)の出身であるといわれているが、ギリシャ化したアルメニア人(スラブ系マケドニア人の説もあり)だという説もある。カラヤンのカラはテュルク語で「黒」を意味するが、バルカン言語地域ではその語はないため、アナトリアの滅亡したキリキア・アルメニア王国からのアルメニア系亡命者とも考えられる。なお、Wikipedia英語版ではアルーマニア人(中世の東ローマ帝国時代にギリシャ北部、マケドニアなどの山岳部に住んでいた、ラテン語系統の言語を話す少数民族。ヴラフ人とも呼ばれ、ルーマニア人の先祖ではないかともいわれる)とされている。カラヤニス家は、15世紀にビザンティン帝国がオスマン帝国に滅ぼされた際にオーストリアへ移住したのだと言う。ただしカラヤン自身は、自らがオーストリア人である事を強く自認していた。
カラヤンはザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーンの音楽大学で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。ちょうどこのころ、ヒトラー総統主催の第九演奏会の指揮を務め、「君は神の道具だ」と絶賛された。
1946年、カラヤンはウィーン・フィルとの戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員[1] であったことを理由に、ソ連の占領軍によって公開演奏停止処分を受けてしまう。しかし翌1947年には再び処分保留となった。1948年にウィーン交響楽団の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。彼の本格的キャリアはこのころより始まった。また、イギリスのレコード会社EMIの録音プロデューサーのウォルター・レッグの元で、フィルハーモニア管弦楽団との演奏活動およびレコード録音も盛んに行うようになった。
1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭の主要な指揮者として抜擢される。しかし、翌年には音楽祭を主催するヴィーラント・ワーグナーと、演出を巡って仲たがいしてしまう。この後、バイロイトに戻る事はなかった。
1954年、ドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが急逝したことで、カラヤンは翌1955年にヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルの首席指揮者兼芸術総監督の地位に登りつめ、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。1957年には同楽団と初の日本演奏旅行を行う(カラヤン自身は1954年、NHK交響楽団を指揮するため単身来日していた)。
1956年から1964年まではウィーン国立歌劇場の芸術監督を勤めたが、オペラ劇団員のストライキをめぐり、保守的で聴衆に受けない監督のエーゴン・ヒルベルトと衝突した。
このころから健康問題の不調に悩まされるようになったが、それにもかかわらず世界中でおびただしい回数の演奏旅行を行った(多い年には1年に340回以上もの演奏会を行ったという)。1965年には映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーとともにコスモテル社を設立して、クラシック音楽の映像化事業にも着手している。
さらに1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。さらに1972年には、ベルリン・フィルとともに3度のコンサートを行い、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭をも創設し、自ら音楽監督に就任した。
1982年、自身の映像制作会社テレモンディアルをモンテカルロに設立。ベートーヴェン交響曲全集をはじめとする、主要レパートリーの映像化にも着手した。1983年、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡り、男性団員のみという原則[2]を楯に加入を認めないベルリン・フィルハーモニーと対立、激しい軋轢は新聞種にもなり、ベルリン・フィルの芸術監督辞任の噂もささやかれたが、翌年和解に至る(結局マイヤーは自ら退団した)。晩年を迎えたカラヤンはこの騒動の後、ベルリン・フィルからの離反を強め、もう一つのヨーロッパを代表する楽団であるウィーン・フィルとの結びつきをより深めていくことになる。
1988年、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は、『お金の魔術師』というタイトルでカラヤン批判の特集記事を組んだ。その内容とは、カラヤンの側近がカラヤンとベルリン・フィルの台湾への演奏旅行の条件として法外な出演料と、カラヤンとウィーン・フィルとの演奏フィルムの購入を台湾側に要求した、というものだった。このスキャンダルに加え、カラヤンのベルリンでの演奏回数が減っていたという事情も手伝って、カラヤンへの批判が噴出してしまう。ベルリン・フィルやドイツの野党からも退任を求める声が高まった。
翌1989年4月24日、ウィーン・フィルとの演奏会(急逝によって最後の演奏会となった)出演の翌日に、健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任した。その3か月後、ザルツブルク近郊にあるアニフの自宅でソニーの大賀典雄社長(現在は名誉会長)との会談中に、心不全により死去した。この突然の死がなければ、ドイツ・グラモフォンとの長年の契約を解消し、ソニーと新しい契約を結び[3]、ウィーン・フィルと自身のレパートリーの新録音・再録音に着手。また、1991年には10年ぶりにウィーン国立歌劇場に復帰する予定(『レコード芸術』1989年8月号)だったともいわれている。
- 脚注
- ^ カラヤンは1933年4月8日、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だったナチスへの入党手続きをとった。ナチスの党員簿によると、最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ、最初の党員番号は抹消されており、同年5月1日にウルムで再入党している。当時のことを後年「私にとってナチス党員になることは、スキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述懐している。戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは1935年、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、これは虚偽申告と断定せざるをえず、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。ただし、最近刊行されたリチャード・オズボーン著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている。
- ^ なお、ベルリン・フィルが1982年ごろまで男性団員のみという原則を固守した理由はいくつかあるが、カラヤン時代のハードなスケジュールにもその一因があったようである。女性楽員が妊娠して産休をとるとローテーションが必要となるが、それに同等のベルリン・フィルのサウンドを持った者を臨時で雇う事は困難であった。
- ^ ちなみにベルリン・フィル辞任から死去までの間に、「ソニーが裏で動いている」という噂が流れ、一時はソニーはおろかソニー所属の音楽家が目の敵にされたことがあった(『レコード芸術』1989年8月号)。ロリン・マゼールがベルリン・フィルのポストを逃したのもこれが遠因といわれている。マゼール自身はドイツ・グラモフォンにも録音があるのだが、とばっちりを受けた形となった。もっとも、後任に選出されたクラウディオ・アバドもソニーに多く録音があるから、とんだ言いがかりの可能性が大である。
カラヤンはオーケストラに合奏の完璧な正確さを要求し、音を徹底的に磨き上げることによって聴衆に陶酔感をもたらし、さらにはダイナミズムと洗練さを同時に追求するスタイルで一世を風靡した、現代的指揮者の代表である。彼自身は若いころからこのスタイルだったようで、30代の時に務めた市民オーケストラでは、あまりの完璧主義に楽団員が辟易し、コンサートマスターから暗殺計画を持ち出されたほどだといわれる。こうした音楽傾向は一部の評論家から、「音楽が大衆に媚びている」「音楽のセールスマン」「精神性が微塵も感じられない」等と批判される事もある。しかし彼の正確さと完璧さの追求は、LP時代から「カラヤンのLPは買っても裏切られることは少ない」という信頼感につながり、そのレコード録音の多さやコマーシャリズムと相まって世界的に熱狂的なカラヤン・ファンを擁するに至った。
クラシック音楽としては珍しいグランプリ賞(1962年のベートーヴェン交響曲全集、1963年のブラームス交響曲全集、1974年の新ウィーン派管弦楽集や1982年のマーラーの交響曲9番など多数)を受けたりとセンセーショナルな活動を見せた。また、1970年にワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の世界初のステレオによるスタジオ録音を、東西ドイツ統一前のドレスデンで行った事もある(ただし、これはサー・ジョン・バルビローリが振るはずだったものらしい)。また映像作品に取り組んだりと、積極的に新しい分野を開拓していった。
カラヤンの音楽的特徴は、レガートの徹底した使用により流麗さを醸し出し、高弦を鋭くさせることによって輝かしさを実現し、(1960年代後半から)コンサート・マスターを2人おき、コントラバスを10人ないし12人と大型演奏にすることにより、オーケストラの音響的ダイナミズムと、室内楽的精緻さという相反する要素の両立を実現したことにある。レガートの徹底した使用は弦楽器の弦と弓を可能な限り放さないボウイングや、弦楽器奏者の他のオーケストラとは異なる右肘の高さ等からも垣間見られる。つまり、どんなに金管が鳴っていても、内声や弦パートがしっかり鳴っていなければならないことや、低音パートがいくらか先に音を出すことなどを要求した。これにより色彩感溢れるとともに重量感のある演奏が実現され、ピラミッド型のどっしりとした造形が描かれることとなった。ライナー・ツェッペリッツ(ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者)は当時「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは今だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」との自信あふれる発言を残している。
R.シュトラウスの作品の演奏の評価も高いが、これは作曲者本人とは個人的な知己でアドバイスまでもらっていたことも大きかった。また『メタモルフォーゼン』(23人の弦楽器奏者のための作品)について、シュトラウス本人に後半部で各パートを3人に増やし69人で演奏することを提案し、同意を得ていたが、ベルリン・フィルの室内楽的緻密さによりその演奏方法の実現を可能にした。この演奏法を実施していることは、ベルリン・フィルとの録音において後半部で急に音量が上がることから確認できる。また、演奏や録音に数多く立ち会った小泉和裕も、カラヤンがこれを実施していることを証言している。
カラヤンは、当時の同世代の指揮者としては異例なほど広範なレパートリーを有していた。ベートーヴェンやブラームス、R.シュトラウス、ブルックナーなどのドイツ・ロマン派の音楽や、チャイコフスキー、あるいはモーツァルトのディヴェルティメントやセレナーデなどで特に高く評価された。それは元来カラヤンの持つ音楽性がそれらの作曲家や曲の個性と一致していたからでもある。チャイコフスキーや先述したR.シュトラウスなどでそれは特に顕著であった。また、ドイツ・オーストリア系の指揮者には珍しく、ヴェルディやプッチーニ等のイタリア・オペラ、シベリウスやグリーグなど北欧の作品も得意とし、これらについてはカラヤンに批判的な評論家達からも賞賛する声が多い。また、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンなどの新ウィーン楽派の演奏でも高い評価を得た。
また、ヨーロッパのオペラハウスでの原語上演は、カラヤンに始まるといわれている。それ以前はコヴェントガーデンやウィーンですら、オペラの現地の言葉での翻訳上演は半ば常識であった。カラヤンの芸術監督時代のウィーン国立歌劇場で始められた原語上演への改革が、その後の今日に至る原語上演の広まりのさきがけとなった。
カラヤンは指揮者の職業病ともいえる、脊椎の持病(75歳の彼の誕生日にエリエッテ夫人から買ってもらったミュール(ロバのような中南米の動物)から感染したとされている奇病の「ライム病」は、病状をさらに悪化させた)にも悩まされ続け、生涯に2度の大手術をした。下記参考文献中エンドラー『カラヤンの生涯』で初めて明らかにされたが、1978年の脳梗塞(『家庭交響曲』のリハーサル中、落とした指揮棒を取ろうとして指揮台から落ちたのが発作の原因であった)等の体調不良が追い討ちをかけた。その晩年、体のコントロールを失うことにもなった。カラヤンは指揮台の柵につけられた、サドル状の特製の椅子に座って指揮し(歩くのもきつく、しばしば自虐的な冗談を口にした)、長年目をつぶって指揮していたが、1983年ごろからは目を開いて指揮することが多くなった(オペラや合唱曲を指揮する時は、全盛期でも目を開けて指揮しており、残された映像で確認できる)。
晩年の演奏や録音については衰えを指摘する向きもあるが、記録に対する執念はそれ以前にも増し、かつては決して相性が良いとはいえなかったマーラーの曲では交響曲第9番(1982年)の凄みのある表現をはじめ、1988年のブルックナーの交響曲第8番、ザルツブルクにおけるオペラ映像などは、その並外れた正確さを土台にした解釈の普遍性と透明度で、今なお余人の追随を許さない独自の境地に達している。
カラヤンと日本との関係は歴史は深く、1954年に初来日以降、11回日本を訪問している。日本でのカラヤンの人気もすさまじく、カラヤンは指揮者の代名詞としてクラシック・ファンのみならず一般大衆もその認知するところであった。一時期、レコード雑誌のクラシック音楽のレコード・ベスト30を決定する投票で、カラヤンのレコードが28枚も占めたほどであった(残る2枚は、定番の一つであるイ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディの『四季』)。
カラヤンは、東京・赤坂にある日本有数の音楽ホールであるサントリーホールの建設にも設計の段階から携わっている(このホールは、カラヤンとベルリン・フィルの本拠地であったベルリン・フィルハーモニー・ホールをモデルにしている)。その業績を称えて、サントリーホールの前(アーク森ビル)の広場が「カラヤン広場」と命名され、今日もその名を刻んでいる。もっとも、サントリーホールのオープニングを祝う来日公演は、病気でキャンセルを余儀なくされ、弟子である日本人指揮者小澤征爾に代役がゆだねられた。
[編集] カラヤンの来日公演
[編集] NHK交響楽団
[編集] ベルリン・フィル
- 1957年11月3日 - 11月22日。日比谷公会堂などで公演。NHK交響楽団との合同演奏も実施。
- 1966年4月12日 - 5月3日。東京文化会館などで公演。
- この時、公演の一部がNHK-FMにてステレオ放送される(一部は生放送だった)。(この時、生放送でステレオで聴けた地域は関東甲信越と静岡県のみ。)
- 1970年5月8日 - 5月22日。東京文化会館、日比谷公会堂、フェスティバルホールで公演。
- 1973年10月25日 - 11月4日。NHKホール、フェスティバルホールで公演。
- 1977年11月6日 - 11月18日。フェスティバルホール、普門館で公演。この公演で彼がホールの音響を酷評したため、設備が一新されることとなる。
- 1979年10月16日 - 10月25日。普門館で公演。
- 1981年10月28日 - 11月8日。東京文化会館、NHKホールで公演。
- 1984年10月18日 - 10月24日。東京文化会館、普門館、ザ・シンフォニーホールで公演。
- (1986年10月28日 - 10月30日。サントリーホール・オープニングコンサートの一環)
- 10月28日 サントリーホール
- 10月29日 サントリーホール
- 10月30日 サントリーホール
- モーツァルト:ディヴェルティメント第17番
- ブルックナー:交響曲第9番
- 1988年4月29日 - 5月5日。ザ・シンフォニーホール、東京文化会館、サントリーホールで公演。
- 4月29日 ザ・シンフォニーホール
- 4月30日 ザ・シンフォニーホール
- 5月2日 サントリーホール
- 4月29日の公演に同じ
- 5月4日 東京文化会館
- ベートーヴェン:交響曲第4番
- ムソルグスキー~ラヴェル編:組曲『展覧会の絵』
- 5月5日 サントリーホール
- モーツァルト:交響曲第39番
- ブラームス:交響曲第1番
- 東京公演がNHK-FMで生放送された。
[編集] ウィーン・フィル
- 1959年10月27日 - 11月7日。日比谷公会堂、フェスティバルホールなどで公演。
- ウィーン・フィルとの来日公演はこの時だけ。1990年2月に、東京と大阪での計4回予定されていた来日公演(『レコード芸術』1989年8月号)は、死によって幻となった。
今や、音楽その他の記録媒体としてすっかり定着した感のあるCDだが、カセットなどと異なり中途半端に思われる記録時間「74分」はカラヤンが決めた、という伝説がある。CDの開発元であるオランダのフィリップス社から記録時間はどれくらいがよいかと問われたとき、彼は「ベートーヴェンの第九が入るようにしてほしい」と要望したという。実際には、CDの直径を決める際、当時普及していたカセットテープの対角線の長さである11.5cmを主張したフィリップスと12cmを主張したソニーとで意見が大きく分かれた。前者ならば録音時間は60分、後者ならば74分録音できることになる。ソニーの重役であった大賀典雄は研究の末、74分収録できればたいていの交響曲及びオペラの一幕はCD一枚に収まるという結果を得た。しかし両者とも譲らず、なかなか合意に達せずにいたところ、ソニーがカラヤンの上記の談話をフィリップス社に伝え、説得に成功したというのが実情であろう。 また、1981年のザルツブルク復活音楽祭で、ヘルベルト・フォン・カラヤン財団が、ソニー、フィリップス、ポリグラム・グループと協力し、急遽、CDの生産に踏み切ると発表している。 さらにはCD発売間もないころ、「カラヤンが自分の第九だけがぎりぎり収録出来るサイズに決めた」という噂がまことしやかに囁かれた。その原因の一つは、晩年は演奏のテンポが遅くなっていた彼のライバルのカール・ベームの演奏する第九(78分40秒)が、CD2枚組で発売されたためである(2枚組では収録時間が余り過ぎたため、『田園』をカップリングしていた。その後、CDの収録時間が延びたおかげで、このCDも再発売盤では1枚に収まるようになった)。
ベルリン・フィルの楽員の談話によると、カラヤン&ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲全集の売り上げは、バーンスタイン&ウィーン・フィルのそれの10倍以上あったといわれる。もっとも、バーンスタイン&ウィーン・フィルのコンビは1970年代後半からのドイツ・グラモフォン社の録音で売り上げを伸ばしてきたため、1960年代前半から市場を制覇してきたカラヤンとの比較は年代的な無理がある。
没後のリリース
カラヤンは1989年に亡くなっているので、それ以降の新録音は当然ない。しかし、カラヤンの生前は発売が許可されなかった録音や、デジタルリマスタリングを施したもの、あるいはザルツブルク音楽祭でのライブや放送録音の発掘などで新リリースが相次いでいる。中でも、1995年に発売された「アダージョ・カラヤン」はラテン系諸国を中心に大ヒットを記録した。「アダージョ・カラヤン」の大ヒットは、その続編盤やヒットに便乗したかのような亜流のCDを生み出した。また、2006年には、2006 FIFAワールドカップを記念して、それまで特典盤でのみ発表されていた「ヨーロッパ国歌集 ザ・アンセム・アルバム」がギリシャとデンマークの国歌を追加して正式にリリースされた。また、同年には1957年(ベルリン・フィル)と1959年(ウィーン・フィル)の日本公演を収めたDVDがNHKエンタープライズから正式にリリースされた。2007年12月には、長らく発売が待たれていた1984年10月の大阪公演(『ローマの松』ほか)のDVDが発売された。
[編集] 最後の一日
それは、当時ソニーの社長だった大賀氏がカラヤンの自宅を訪ねた時に起こった。カラヤンは「左胸のあたりが調子悪いから、自宅の温水プールで泳いだ」と言ったら、大賀は「そんなことをしていいんですか」と答えた。大賀は、カラヤンに次世代のデジタルビデオ・カメラを出来るだけ早く納品する約束と、カラヤンがLDでの発売しか認めていなかったレガシー・シリーズの映像作品を8ミリのソフトで発売しないかという営業に来ていたのであった。そしてエリエッテ夫人がシャワーを浴びている時に、カラヤンが突然ぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心停止となってしまった。緊急のヘリコプターが呼ばれたが間に合わなかった。 それは、カラヤンがDGからソニーに電撃移籍する直前の死去だった。 移籍に当たっては、そのテストケースとして、カルロ・マリア・ジュリーニをソニーへ送り込み、また「カラヤンの耳」とまでいわれたレコーディング・エンジニアのギュンター・ヘルマンスも送り込んでいた。 辞任したBPOとの最後のコンサートは、ザルツブルク復活祭音楽祭でのヴェルディのレクイエム。生涯最後の録音と演奏会は、VPOとのブルックナーの交響曲第7番だった。なお、カラヤンは逝去する前日にザルツブルク祝祭大劇場で、この年の夏の音楽祭でプレミエを迎えるヴェルディの歌劇『仮面舞踏会』のリハーサルを行っており、カラヤンが最後に指揮をした曲は『仮面舞踏会』だったと思われる。
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